今日のみ言葉(2011年5月27日)【No.68】

2012年2月5日

「それから、みんなの者に言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。』」
(ルカ9:23)

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自分の十字架を負うとはどういうことでしょうか?

その当時、十字架につけられる罪人は刑場まで自分の十字架の木を負って行かなければなりませんでした。ですから十字架をこのまま背負っていけば、やがてこのことのために私は死ななければならない、という恐ろしいことを言っているのです。自分を捨て、相当の覚悟を持たなければ十字架を負うことは出来ないように感じます。

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ところが、案外人間は、「私は○○のためなら死んでもいい!」と軽く言っていることがあります。
ミュージシャンのサンプラザ中野くん氏は、「健康のためなら死んでもいい!」と広言して憚りません。しかし、いい加減な意味ではなく、彼は断食、温冷浴、玄米食、種々の健康グッズ…等々の手段で健康維持に努めておられます。
ポイントは、他人から見たら苦しい犠牲を払っているようでも、本人にとっては健康を増し加えていける喜びだということです。十字架を負う時は、喜んで負ってこそ本物なのです。

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では、どのようにしたら自分を捨て、喜んで十字架という犠牲を負えるようになるのでしょうか?その秘密は、「わたしについてきたいと思うなら」にあります。

「この人にならどこまでもついて行きたい」、と思うくらい、イエス・キリストに魅力を感じることです。つまり、イエス様にぞっこん惚れ込むほどその良さを知り、たっぷりと自分が恵まれる体験をすることです。それは、進んで自分のために犠牲になってくれる人のおかげで得をする体験をすることです。
喜んで踏み台になってくれる人を利用して自分が脚光を浴びることです。そうやって自己犠牲の素晴らしさを体験した人だけが、強いられてでも義務でもお役目でもなく、自分から十字架を手にとって負おうとすることができるのです。

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まず自分が恵まれることは自己中心なことではありません。本音の部分が満たされて初めて、人間は真の意味でイエス様に従って行こうという思いになるのです。
自分の十字架を負ってみると、予想通りの苦労はあります。それと同時に、十字架を手にする前には見えなかった喜びと充実感と安心感があるのを体験します。
十字架を負ったら、後はすべてを神に委ねて前進しましょう。新しい世界があなたを待っています。

初期,御言葉

Posted by maruyama