今日のみ言葉【No.1552】(2017年 6月24日) 088 「イエスを十字架からとり降ろした人々」(4)

イエスが十字架にかけられた所には、一つの園があり、そこにはまだだれも葬られたことのない新しい墓があった。
(ヨハネ19:41)

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精神科医の川村則行先生はお母さんから「あなたね、自分の人生に期待したらあかんよ」と言われて、「それって、俺の人生はダメだってことか」と一瞬思ったそうです。

しかし後になって母親の真意とは、「期待をして見返りを求めて生きていてはダメよ」ということだとわかりました。
(『生きる力がわいてくる本』,川村則行著,PHP研究所)

見返りを期待して人を愛すると、その期待が裏切られた時に愛していたはずの人を逆に恨む気持ちが湧いてきます。

期待が裏切られた時に私たちの真実の姿が現れ、期待から希望へと新たな道が開かれていきます。

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十字架上でイエス・キリストが死んでしまったからには、アリマタヤのヨセフとニコデモの期待は完全に裏切られたと言って良いでしょう。

死んでしまったらおしまいだからです。

きっとこうなるはずだ、と期待していたものがそうならなかった時、人の反応は様々です。

イワシの群れがマグロに追われてサッサッと一瞬で向きを変えるように、群衆の変わり身の早さは一番です。

イスカリオテのユダのように、自分の期待を裏切るキリストを強制的に期待に沿うようにしようとした人がいました。

我が身が大事と弟子たちは逃げ出しました。

逃げ出した後、中途半端に戻って来てかえって心の傷を深くしたペテロもいました。

失望落胆してエマオに向かった二人の弟子がいました。

しかしアリマタヤのヨセフとニコデモは期待が裏切られた時に離れることはせず、むしろ自分たちの存在を現し、ヨセフは自分が所有する「まだだれも葬られたことのない新しい墓」を差し出しました。

しかしこれとて100点満点の答でも合格点でもありません。

誰もイエス・キリストの復活を信じていなかったからです。

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思っていたとおりに祈りがかなわなかった時、私たちの真実の姿が現されます。

しかし、どの場所にいたとしても、そこから方向を神の方に向けていけば良いのです。

後に群集はペテロの説教によって悔い改めます。

エマオの二人の弟子たちはエルサレムに引き返し、他の弟子たちに復活の主に出会ったことを報告します。

ユダだけは自分で自分の始末をして、神に人生をゆだねることをしませんでした。

今自分から出た答が神の期待を裏切るものであったとしても、神は私たちに期待でなく希望を持っておられます。

その神の希望を私たちの希望としていただいて、今日も生きていくことが神の御心なのです。

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期待すると裏切られることがあります。

しかし、希望は失望に終わることはありません。

神に望みを置き、祈ってかなえられた時には感謝し、かなえられなかった時には別の御心を探し求め、それを見出す希望を抱き続けて参りましょう。

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