今日のみ言葉【No.1517】(2017年 4月13日) 078 「ペテロ(「主よ、どこへおいでになるのですか」)」(1)
シモン・ペテロがイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのですか」。
(ヨハネ13:36)
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『クォ・ヴァディス(Quo Vadis)』は、1905年にノーベル文学賞を受賞したポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチの代表作です。
1951年に封切られた同名の映画は大変有名で、レンタルDVD店の名作シリーズのコーナーに必ず備えられてあります。
この映画のクライマックスは、ネロ帝の迫害から逃れてローマを離れようとしたペテロがイエス様と出会うシーンです。
彼はイエス様に「ドミネ・クォ・ヴァディス?」と問います。
それはラテン語で
「主よ、どこへおいでになるのですか」
(ヨハネ13:36)
という意味です。
イエス様は、「あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行ってもう一度十字架にかかる」とおっしゃいます。
一旦気を失ったペテロは、目が覚めて後、元来た道を引き返してローマに向かっていきます。
これは歴史小説ですからフィクションなのですが、心に感動を呼び起こします。
さて、実際にペテロが「主よ、どこへおいでになるのですか」と言った時の彼のイエス様理解度は、本当に浅薄なものでした。
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ヨハネ福音書第13章までに、イエス様は2回、ご自分が去って行かれること、そして、そこに弟子たちは来ることが出来ないことを語っておられます。
そして13章でも弟子たちにはっきり告げておられます。
「子たちよ、わたしはまだしばらく、あなたがたと一緒にいる。あなたがたはわたしを捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに言ったとおり、今あなたがたにも言う、『あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない』。」
(ヨハネ13:33)
イエス様はご自身が十字架について死んだ後のことを語っておられるのですが、ペテロは死後の行く末について言っておられるのだと悟ることはできませんでした。
彼が思いつくことは、ただ単に行き先の場所のことか、行った先での自分の運命のことだったのです。
もっと言えば、
「主よ、どこへも行かないで下さい」
という思いをペテロは無意識に持っていたのではないかと思われます。
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人は、自分が恐れている運命は決して起こって欲しくない、と思い、考えることを休止します。
自分や家族の健康状態に異常があると知らされた時に、頭が真っ白になり、お医者さんが言っていることは聞こえているが、頭が全く動かないというのはこれです。
そうでもしないと、これから後の日常生活を進めることができないからです。
しかし、常に頭の片隅でアラーム音の警報が鳴っています。
その音を気づかせなくするため、目の前の仕事に全力を注いでいるのが私たちの姿ではないでしょうか。
ペテロはイエス様が常にそばにいて、自分たちを引き上げてくれる王として存在していて欲しいと願っていました。
客観的に見れば、何と自己中心な考え方かと思いますが、ペテロにとってそれ以外の選択はありませんでした。
ペテロは白昼夢のような将来を願っていますが、イエス様は神が与えた現実に突入しようとしています。
ここにペテロとイエス様との間の「すれ違い」が生じることは当然だったでしょう。
この溝を埋め、師であるイエス様との間をすり合わせるために、彼の言葉が次のような極端な方向へ向かったのもうなづけます。
「主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、命も捨てます」
(ヨハネ13:37)
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あなたの頭の中で、いつも小さく鳴っているアラーム音は何ですか?
今日はそれを無視せず、イエス様が語っておられる声として聞いてみましょう。
それはあなたを脅かすものではなく、人生を導く神の愛の声なのです。
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