今日のみ言葉【No.1493】(2017年 3月15日) 071 「イエスの水上歩行と弟子たち」(3)

そこで、彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。
(ヨハネ6:21)

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私が小学生の頃の友達関係ですが、放課後はどちらの家にいても良かったものです。

何の理由も何の用もなくても、友達の家にいて、しゃべったり、ゲームをしたり、それぞれマンガを読んで無言の時間があったり、せんべいをかじったり…。

それで何時間も過ごしていて、ようやく「そろそろ遅いから帰りなさいよ」とその家の人から声をかけられて帰る、というものでした。

「用があればいてもいい。用がなければ帰りなさい」などとは言われず、利用する利用されるという関係ではなかったことが幸せでした。

そのような、存在だけで受け入れられる関係作りをイエス様はガリラヤ湖上での奇跡を通して弟子たちになさいました。

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ヨハネによる福音書には7つの「しるし」が書かれてあります。

(1)カナの婚礼で水をぶどう酒に変えた奇跡
(2)役人の息子の癒し
(3)ベテスダの池の病人の癒し
(4)5000人の給食

そして5つ目のしるしが、ガリラヤ湖上を歩く奇跡です。

「しるし」は「サイン」ですから、その出来事を通して別の何かを指し示す働きがあります。

それまでの4つのしるしは、全て問題が向こう側からやって来て起こされる受動的なものでしたが、5番目のしるしはイエス様があえて弟子たちに体験させたものでした。

同じ出来事がマタイによる福音書ではこう記されています。

「しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。」
(マタイ14:22)

イエス様は彼らをあえて嵐の中に放り込み、不測の事態を経験させ、そこでご自身の存在の確かさを示すという強烈な体験を彼らにさせたかったのです。

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それは、人々が5千人の給食の奇跡を間違った方向に解釈しだしたからです。

「イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。」
(ヨハネ6:15)

群衆がイエス様を王に祭り上げようとしたのは、「ここに無限のパン供給機がある」と思ったからです。

彼らの本当の求めはパンであって、イエス・キリスト本人を求めたわけではありませんでした。

つまり、パンを与えてくれる人なら誰でも良かったのです。

そして、パンをくれないようなら別の人を王にすげ替える、いわば「使い捨ての王様」を求めていたのが群衆の考えの本質だったのです。

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イエス様はこのような非人格的関係をお嫌いになります。

たとえば女性のあなたが

「家事をしっかりやってくれるから便利だ。結婚して下さい」

と言う男性からプロポーズされて、喜んでOKを出せるでしょうか?

また、男性のあなたが

「あなたはしっかり稼いで給料を渡してくれる人だから、私と結婚して下さい」

という理由でプロポーズされて、その女性と生涯共に歩もうとするでしょうか?

家事をやる、給料を渡す、という役割を果たすから結婚を申し込まれたのであるとすれば、役割を果たせなくなったら結婚している理由はなくなるということです。

これが「使い捨て」ということであり、非人格的関係ということです。

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ガリラヤ湖上を歩いたイエス様は、水から引き上げたペテロと一緒に弟子たちのいる舟に向かいます。

「彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。」
(ヨハネ6:21)

この段階ではまだ嵐の中です。

しかし、

「ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。」
(マタイ14:32)

とあります。

嵐がやんだから喜んでイエス様を迎えたのではなく、まだ風は吹き水は波立ち、イエス様がいても何の「効き目」もない状態の時に、彼らはイエス様の存在を喜んだのです。

これが人格的関係です。

役割を果たす果たさないということに関係なく、その存在自体を喜ぶこと。

イエス様は弟子たちにこのことを学ばさせたくて5つ目のしるしを行われたのです。

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あなたの人生という舟に、イエス・キリストを喜んで迎える今日の一日として参りましょう。

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