今日のみ言葉【No.1173】(2015年11月 6日)

あなたがたは翻って生きよ
(エゼキエル18:32)

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平成22年度の「国語に関する世論調査」(文化庁)で

「情けは人のためならず」

という諺の意味はどちらが正しいでしょうかという設問がありました。

(1)「人に情けを掛けておくと,巡り巡って結局は自分のためになる」(45.8%)
(2)「人に情けを掛けて助けてやることは,結局はその人のためにならない」(45.7%)

ほぼ同じですが、正解は(1)の方です。

人に情けをかけると、情けをかけられた当の本人が潤うだけでなく、めぐりめぐって自分にも返ってきますよ。だから人には親切にしましょう、というのが本来の意味です。

しかし、いつの間にか、「情けをかけることは、その人のためにならない」の意味の方で理解する人々が増えてきたのです。

イスラエルの諺にも同じようなことが起きました。

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「父たちが、酢いぶどうを食べたので子供たちの歯がうく」
(エゼキエル18:2)

これは部族内の連帯責任を教えるための諺だったようです。

バビロンに補囚された民の中には、これを自己保身のために曲解して利用した人々がいました。

つまり、

「我々は父祖の罪ゆえにここに連れて来られたのだから、悪いのは先祖であり、自分たちには罪の悔い改めなど必要ない」

と考える人たちです。

しかし神は、

「子は父の悪を負わない。父は子の悪を負わない。」
(エゼキエル18:20)

と、明確にその関係を分離しています。

エゼキエル書第18章で明らかにされていることは、罪に関して神は個人の責任を問うている、ということです。

これは、私たちを先祖の罪から解放し、自分の過去の罪からも解放する画期的な福音です。

ただしこれも「責任逃れ」のための言い訳に利用するようであってはいけません。

神の御心は、

「あなたがたは翻って生きよ」
(エゼキエル18:32)

なのです。

今ある状況は、どう考えても先祖たちがもたらしたものです。

その中で、神と自分との間の個人的関係をはっきりさせ、神の御心の道を自分の決断で選び取っていくことが重要なのです。

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虐待を受けてきた方々から教えられることは、この人たちには上っ面のキリスト教理論は通じないということです。

「罪を悔い改めて福音を信じましょう」

などという言葉は、はなから相手にされません。

この方々に通じる唯一の言葉は、

「あなたは悪くない」

です。

「あなたは悪くない」
「あなたは誠を貫き通した」
「あなたは悪くない」

この繰り返しを何年も続けます。

虐待経験者は、たとえて言えば、全身に大火傷を負い、誰も治療してくれず、水ぶくれを抱えたまま日常生活を送っている人のようなものです。

火傷の跡に触れなければまず何とか普通に生きられますが、触れたり突っついたりすれば、いともたやすく水ぶくれの皮が裂け、中身が外に出だし、止めどなく流れ、自分も周囲も処置に追われます。

「罪を悔い改めて福音を信じましょう」

という操作的な言葉は全てはじき飛ばされるので、伝道して導く、などということはできません。

ただ、薬を貼り、はがしてはまた貼り、傷口を見ては薬を塗り…、というような日々の繰り返しです。

ところが、この方々は純粋な悔い改めを経験します。

関わる側の言葉を一切拒否するので、結果的に神との個人的関係が成り立ちやすいのです。

誰にも分かってもらえないけど、神様だけがわかっている…。

これが心底信じられるようになるのです。

虐待という大きな負の遺産を背負ったからこそ持てる、神の恵みだと私は思います。

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誰でも、翻って生きることができます。

その決心を神は待っておられます。

今日もじっと見守っておられる神の暖かい視線を感じながら、一日を歩んで参りましょう。

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