今日のみ言葉【No.1670】(2017年12月19日)「 霊の人となるために」
見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい
(ルカ24:49)
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朝起きたときに頭が「ボーッ」としている。
それは寝ている間にブドウ糖が使われて足りなくなっているためです。
脳のエネルギー源はブドウ糖ですから、ご飯などの主食を朝食でしっかり取り、一日をいきいきと活動するためのスイッチを入れたいものです。
霊のブドウ糖は聖霊です。
聖書はまず聖霊の力を得ることが必要だと語っています。
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前回はまずエルサレムから、と述べましたが、実はスタートする前にやっておかなければならないことがあります。
それは待つことです。
神の御心は全世界にキリストの福音を伝えることですし、時は限られています。
今すぐ始めても良いと思いますが、聖書はそう言っていません。
「上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」
(ルカ24:49)
と、動かずにとどまることを教え、ブレーキをかけているのです。
これは伝道が人間的思いでなされるのではなく、聖霊の力によってなされることが明らかにされるためです。
命のない切り花は数日間はもつでしょうが、まもなく枯れてしまいます。
しかし、土にしっかりと根を張った命ある植物は花を咲かせ続けるだけでなく、実の中の種が次の命を育み、地上の至るところに花を咲かせます。
上から与えられる聖霊の力を内に宿すまで、神と自分との関係を密接にする時間が人には必要なのです。
このようにして始めた人が、次の霊の人を生み出すからです。
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神学生や教会スタッフを見ていると、この「待て、とどまれ」に従った人から順に神に用いられているようです。
とはいえ、全員最初は失敗します。
良かれと思ってやること、理論的に御心にかなうと判断してやること、愛の行為としての親切。
いずれもことごとく拒否され、嫌われ、反発を食らいます。
そしてお正月に遊ぶ双六(すごろく)のごとく、ふりだしに戻されるのです。
「上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」
(ルカ24:49)
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その過程で人間的要素が次々と削ぎ落とされます。
「神でなく人を喜ばそうと思っていた」
「好感度アップを狙っていたのは自分の自信のなさをカバーするためだった」
「あれは愛ではなく単なる同情だった」
そして自分を変えるために聖霊の油注ぎを求めます。
周囲がどんどん成長し、用いられていくのに、自分一人都にとどまって聖霊の力が与えられるまで待つのは辛いことです。
しかし、待てど暮らせど与えられません。
やがて求める心も失せ、心は冬の枯れ野原となります。
そこに、聖霊による命の芽が吹き出すのです。
自我の葉が生い茂るところでは聖霊の芽は育ちません。
聖霊はあなたの無力さを通して働かれるのです。
「すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである」
(第1コリント1:28)
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祈って神の力に満たされるまで待つ。
今日の一日をそのようにして始めて参りましょう。
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