今日のみ言葉【No.1374】(2016年 9月24日) 031 「ベツサイダの盲人」(2)
イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と尋ねられた。
(マルコ8:23)
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あるおばさんが買う気もないのにスマホ売り場で
「野菜も切れるの?」
と尋ねると、店員さんは
「今は無理ですが追々と」
と笑顔で切り返しました。
ユーモアあふれる会話です。
しかし、水没したら終わりだと思っていた時代から、お風呂にドボンと入れても大丈夫というのがセールスポイントの機種が出る時代です。
やがてそうなると期待しても良いのかもしれません。
ベツサイダの盲人の癒しも、そのように段階を踏み、徐々に癒されていきました。
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イエス様は、この人を癒す途中で、「何か見えるか」と尋ねられました。
福音書の他の箇所で、イエス様が癒しの業の途中で、このように聞かれるところはありません。
通常は、ただ1回、言葉を発することで癒されるのです。
しかしこの時の「尋ねられた」という動詞は、文法的には継続を表す未完了形が使われています。
つまり、イエス様は彼に対して、しきりに聞き続けられたのです。
「何か見えるか?どうだ?見えるか?」
自信がなかったからでしょうか?
いいえ、それは違うでしょう。
望みを全く持てないこの人に対して、イエス様は彼のその位置まで降りてきて下さり、
「何をやってもダメだ」
としか見えない心の中の風景に
「何か見えるか」
と尋ね続け、揺さぶりをかけ、「見えるかもしれない」という一条の光を彼の心の中に注がれたのです。
彼はイエス様のうながしによって、目を上げました。
それまではうつむいたままです。
しかし、ぼんやりとでも見えるようになったことは、彼の心を、神に対する信頼と希望へと向かわせました。
2度目の癒しの時には、彼の態度は明らかに変わっていました。
自分の人生と、神のみ業をはっきりと「見つめる」態度に変わったのです。
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形式的に神を信じる人がいます。
私もその一人です。
本当にはっきりとは信じられないので、形から入り、実感はないが、意志的に神の存在を肯定しようと選択した人たちです。
ベツサイダの盲人と同じ種類の人間だと私は思っています。
この方々は感動の世界とは無縁です。
「神様は祈りを聞いて下さいました!」
と喜ぶ人に対して、言葉では
「良かったですね」
と言いますが、
「へ〜、そうなんだ」
という程度の気持ちです。
そして心の中では、
「聖書の約束はこう言ってるから、ああなったんだな」
と分析しています。
最初から神様に強烈な望みを持っていないので、
「祈りは聞かれるというけど、祈った通りにならない時もあるよな」
と冷静に考えることができます。
この方々に、イエス様は繰り返し
「何か見えるか」
(マルコ8:23)
と事あるごとに尋ね続けて下さるのは何という恵みでしょうか。
ぼんやりと見えればいいのです。
2段階の癒しをしてもらったベツサイダの盲人のように、
「すべてのものがはっきりと見えだした」
(マルコ8:25)
という日がやがてやって来るからです。
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イエス・キリストの関わりを、そのまま受ける一日として参りましょう。
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